2016年02月16日

インクルーシブ教育とはそもそも何だったのか?(その4、完結版)

2月16日:
※ これまで三つの記事の続きです。

 ここまでに書いてきたように、国際機関、先進国政府、途上国政府…、それぞれが使用してきた「インクルーシブ」の意味や使い方がぜんぜん違うんですね。
そして、インクルーシブ教育の研究者の中には、先進国の事例で研究してる人と、途上国の事例で研究してる人と、国際機関の発表内容を分析してる人と…など、色々いるわけですよ。
同じ「インクルーシブ教育」という言葉のテーマで書かれてる論文、意味してる教育内容がまったくもって違います。
 さらに、最近「インクルーシブ」が流行りなので、いわゆる興味持ち始めましたの研究者たちがいて、自分の専門分野じゃないのに数冊文献読んで、「よし分かったぞ!インクルーシブ教育とは、ずばりこうあるべきです!」みたいな、一部だけ切り取っていかにもな感じで論じてる論文がいっぱい存在するんですね。

 そうやって、研究者たちが独自に定義を考えた結果、同じ「インクルーシブ教育」という言葉の、まったく異なる五つの定義一覧はこちら:
@ インクルーシブ教育とは、障害のある子も少数民族も言語が違う人もLGBTも女性も、みんなが差別なく地域の学校に通って、同じ教室で学ぶことです!(→投げ込み)
A インクルーシブ教育とは、全ての子どもたちが地域の学校に通って一緒に学びながら、同時に通常学習において支援が必要な子たちには適切なサポートを提供する教育のことです(→ 最初の概念)
B インクルーシブ教育とは、みんなが居心地良く、互いを尊重し合って協力し合って共に学んでいくような教育で、これによってすべての人の社会参加も実現されます。というわけで、学校においても全ての人の社会参加を実現するため、教育を担当するのは先生だけじゃなくて、政治家も医者も企業家もウェルカムですし、ご両親もぜひ学習サポーターとして参加してください!(→ 何でもアリ教育)
C インクルーシブ教育とは、全ての子どもたちが「協力によって能力を伸ばす」という同じ教育目標の中で学習することです。つまり、各自の能力を伸ばすために最も適切な環境で適切な教育を受けることを意味するので、特別支援学校に通うことも、それがベストならばインクルーシブ教育です(→ 最近よく登場するウォーノック論)
D インクルーシブ教育とは、現行の教育カリキュラムを再検討したり、全ての人達の機会平等を実現するために資源を投入したりしながら、学校が全ての生徒に個人として応答できるようになるためのプロセスです(→ ついに達成目標じゃなくてプロセスになっちゃいました)
 以上は、私が100冊以上の文献を基に、同じような定義言ってる人のは一まとめにして、大ざっぱに五つにわけたものです。私がまだ出会ってない文献も沢山あるので、さらに異なる定義はもっと出てくると予想されます。

 で?何これ?上野五つは、誰がどう見ても、同じ教育内容じゃないですね?でも「インクルーシブ教育」って論文検索したら、これらそれぞれの内容がまるで同じトピックかのように出てきますから!
皆さん、これらを承知のうえで、「インクルーシブ教育推進」などの言葉…使ってますよね?もちろん。まさか、何を推進してるのかいまいち分からないまま進めてる…わけないですよね?
 だから、たとえば突然「あなたはインクルーシブ教育に賛成ですか、反対ですか?」って聞かれても、答えられるわけないんです。とりあえず聞き返した方がいいです、「あなたが思うインクルーシブ教育とは、どれのことですか?」って。
 今回私たちが出版するかも知れないインクルーシブ教育の本ですが、もう想像がつく通り、たぶんカオスですよ!研究者によって、思い描いてるインクルーシブ教育の種類が違うでしょうから。

 で?私が任されている、本の第2章に来そうな責任の重い論文、「インクルーシブ教育とはそもそも何だったのか」?
…知らないですよ、私が聞きたいです!だってこれ、人に寄って内容違いますもん、しまいには同じ教室で各自バラバラのカリキュラムで…とか、公文みたいなことまで言い出した人いるじゃないですか。
あえて言うなら、最初にその言葉が生まれた時のインクルーシブ教育ならば、「全ての子どもたちが通常学級で学びながら、支援が必要な子は適切なサポートを受ける」ですね?
ただしこれは、最初にも書いたように、インテグレーション(投げ込み)の失敗への対応策として生まれた言葉であって、誰もこれを国際的な目標に掲げて推進しろとは言ってませんし、これがソーシャル・インクルージョン(共に活きる社会)に繋がるとは言ってません!
そうするとですね…、現在の世界がインクルーシブ教育を進めたい主な理由は、「差別解消」とか、「ソーシャル・インクルージョンの実現」とかでしょ?…実はそこに繋がらないんだったら…、あれ?ここ30年以上何だったっけ?ってなります(笑)

 ほぉらわけが分からなくなってきた、ユネスコもびっくりですよ!たんにイギリスやアメリカが、投げ込みの改善策として導入してみた教育の1ページであって、「誰もが居心地良くて共に尊重しあえて社会参加に繋がって」…みたいな言葉、なぜできあがって行ったんでしょうね?
っていうわけで、もし「インクルーシブ教育とはそもそも何だったのか」という問いを、「イギリスやアメリカがやった、投げ込みへの改善策でした」って結論付けてしまったら、だから彼らの話しなので別にもうこれ以上インクルーシブ教育の研究する必要ないんじゃない?ってなってきます!
めでたしめでたし…、じゃないですよね絶対?私の部分、第2章でこれで話し終わっちゃったら、後ろの先生方の論文どうなるんですか!誰も読まないじゃないですか!

 「そもそも何だったのか」の問いへの答えは上述したことなんですけれど、「じゃあ現在、何でもあり教育になっちゃってる、このカオスな議論はどう片づけるのか」っていう別の問題残りますね?
すでにほとんどの国でインクルーシブ教育を、彼らなりの解釈に基づいて実施してますし。
 じゃあ、ちょっときれいに交通整理しませんか、せめて「インクルーシブとは何なのか」「インクルーシブ教育とは何なのか」「ソーシャル・インクルージョンとは何なのか」…、これら三つの定義を、一つに決定してから考えませんか?
だって、いろんな論文読んでると、「インクルーシブ教育とはみんなが居心地いいんでしょ?よし賛成」、「インクルーシブ教育って親も学習サポーターしなきゃいけないんでしょ?まじで?めんどくさいから反対」
「インクルーシブ教育ってみんな一緒に学ぶんでしょ?無理無理付いて行けない生徒いる」「いやいや、各自のレベルに合わせた教科書使えばいいんじゃない?」「そもそも、各自が適切な教育環境で学べるようにしないと」
……、待って?待って?…ごめん、そもそも論で悪いんだけれど、うちら何の議論してるんだっけ?って思います(笑)
 とりあえずですね、みんな適当な解釈で適当なこと言いすぎですよ、言葉の定義と思い描く状況は共通認識を持ってから、改めてインクルーシブ教育の是非とか推進法とか考えましょうよ…っていう論文になりそうなんですけど、これでいいですよね?
以上です、お付き合いいただきありがとうございました、おしまい!
posted by Yukari at 18:49| Comment(0) | 日記

インクルーシブ教育とはそもそも何だったのか?(その3)

2月16日:
※ さらに今までの記事の続きです。

 以下、この「何でもアリ教育」が、わけ分からない方向にこじれた事例をご紹介します。

 まずはカリキュラム編!全ての子どもたちが同じ学校で適切なサポートを受けながら快適に学習って言ってたら、批判があったんですね。そもそも、その通常の学習カリキュラムに付いて行けない、あるいは理解できない子どもはどうしたらいいんですかって。
この批判にあわてて返答しなきゃいけなくなった結果、「いやいや、全ての子どもたちに居心地良く学んでもらうインクルーシブ教育なので、別にみんなが同じカリキュラムで学習しなくてもいいんです。
たとえば数学の時間に、それぞれの子どもたちが自分の学習レベルに合った内容を、自分のペースで学べることこそインクルーシブだと思います」
→ それ同じ教室にいる必要ないだろ(笑)!!
何が起きた?えっと予備校の学習室でしたっけ、公文とかそういうのでしたっけ?とりあえずいろんな特徴のある子どもたちが一つの教室に集まり、みんなそれぞれ内容の違う教科書開いて、学習サポーターに教えてもらいながら各自学習…?もうそれだったら、各ご家庭に学習サポーター派遣でいいじゃないですか。

 次、特別支援学校の扱い編。インクルーシブ教育を進めて全ての子どもたちが一般の学校に行くっていう選択肢しかなくなったら、特別支援学校は廃止されるのかっていう怒りや不安が、イギリスにおいて障害児学校教員や保護者の間に広がったんですね。
まあこれは、2007年の特別支援教育推進法以来、日本にも広がっている懸念ですね。
まずいぞ、特別支援学校の先生方や障害児の保護者たちを敵に回しそうだぞ、反対されそうだぞって思った政府はあわてて付け加えます。「いやいや、インクルーシブ教育をやっても特別支援学校は廃止しませんよ。特別支援学校の意義やそれがとても大切なことはものすごく分かってます。
特別支援学校の先生方には、ぜひこれからもその高い専門性を活かして、通常学校に在籍する障害児や彼らを教える教員への助言、サポートなどをしていただこうと思って。同時に、通常学級ではどうしても快適に学習することが難しい生徒さんたちの受け入れ先として、特別支援学校は必要です。
まあその辺りは、インクルーシブ教育なので、それぞれの子どもたちのニーズに合わせて、学習環境や支援方法なども柔軟に行っていただけたらと。だから、全ての子どもたちが通常学校で適切なサポートを受けながら、なおかつ臨機応変に特別支援学校に在籍したりそこからサポートを受ける可能性も含めた柔軟な教育システムがインクルーシブ教育ってことで…」
→ 誰か訳してください、けっきょく何言ってるのかまったく分かりません。
ま、誰も敵に回さないようごまかしただけですね。イギリス政府がこういう、何の答えにもなってないわけ分からないこと言うから、いまだに何を実現させるのか分からない目標を達成するために頑張ってるじゃないですか皆さん。
 ストレートに行ってしまえば、とりあえず通常のカリキュラムに付いて行ける子どもは全部通常学校に投げ込んで、特別支援学校なんて最小限にしたかった。ただし、通常のカリキュラムには付いてこられない子どもたちの受け入れ先必要なので、いわゆる昔の「教育不能児」の学習場所として特別支援学校も幾つか置いておきましょう。
でもそういう言い方したら、特別支援学校の先生や障害者たちから怒られたから、特別支援学校の専門性も活かしながらみんな平等に通常学校で学習、どっちもありな柔軟な教育ってことにしとこう…、ってなったんですね。いや、これ結論じゃない。

 以上二つの事例に共通して言えることは、それぞれ「批判されないように対応する」っていうことに一生懸命になって、そもそものインクルーシブ教育の経緯や意味から逸脱し始めてることです。

 国際機関、各国の政府、そして研究者…、それぞれにとってこの「インクルーシブ」という言葉は、各自の立場に合った目的を達成するために使われてきたようです。
国際機関が提唱する「●●宣言」では、あまり具体的なことは言えません。どんな国にも当てはまるような宣言にしなければいけないので、細かいことまで定義できなくて、どうしても抽象的な言い方になるんですね。
「健康で文化的な最低限度の生活の保障(ベイシック・ニーズの保障)」とかも、改めて考えると、これ何を言ってるのか意味まったく分からないですから。健康の定義は何ですか、病気になってないことですか、命に別状ないことですか、心の健康も入りますか?みたいな。
だから、国際機関として、どこの国にも当てはまる抽象的な言葉を使いたい、その結果、何となく誰にとってもいいもの…みたいな概念で「インクルーシブ」という言葉が使われ始めた…、とりあえずここまでは、仕方がないかも知れないです。

 さて先進国の政府たち。どうやら彼らはこの「インクルーシブ」という言葉を、国民からの反論を招くことなく自分たちの政策を実行するための方法として使ったようですね。
とにかく、インクルーシブっていう言葉付けとけば何でもアリだし、「全ての人にとって居心地のいい」って言えば国民説得できるし、ややこしくなったら「インクルーシブなので柔軟に」って言えばいいし…と。
 そして途上国政府は焦ります。国際機関もインクルーシブを目標に掲げてるし、先進国はどんどんインクルーシブな政策を導入してるし…、置いて行かれないためにもうちの国にもインクルーシブ入れなきゃ!何したらいいんだ?…えっと、概念よく分からないけど、とりあえずみんな平等なんでしょ?えっと、みんなが同じ学校に通えるようにするんでしょ?…みたいな。
→ 現在に至る…ですね。

※ 次の記事で完結します。
posted by Yukari at 17:34| Comment(0) | 日記

インクルーシブ教育とはそもそも何だったのか?(その2)

2月16日
※ 前の記事の続きです。

 ここまで、1990年代に入るころまではまだ流れや議論が単純なんです。この後、話しはだんだん、研究者や国によって解釈が分かれたりなど、好き勝手な方向に行きます。

 誰が最初に言い始めたのかとかはまだ突き止められていませんが、ここまで別々の流れから生まれたはずの「ソーシャル・インクルージョン」と、「インクルーシブ教育」とが、一緒に考えられるようになってきたのはこの1990年代からです。
ソーシャル・インクルージョンが、移民などを差別しない社会にしていこうっていう考え方で、インクルーシブ教育が、全ての子どもたちが通常学校で適切なサポートを受けながら学べるようにしようっていう教育法なら、この二つ、みんな平等っていう同じことを目指してるんじゃないの?みたいな。
皆さんここで頷かないでくださいね!これ、何課突然論理が飛躍した瞬間ですから。
移民を差別するソーシャル・エクスクルージョンは良くない、だからその反論としてソーシャル・インクルージョンを進めよう…、ここまではとりあえず分かります。
一般の学校に何でもかんでもただ投げ込むだけのインテグレーションじゃだめだった、だから一般学校において学習支援が必要な子どもたちには適切なサポートをする、インクルージョンを進めよう…、まあちょっと意義がありますが、とりあえずこの論理は分かります。
で?そこまでは分かるんですけれど、何をどうしたら、「ってことは、インクルーシブ教育も、ソーシャル・インクルージョンを達成するための手段の一つなんじゃないの?」っていう考えまで飛んでいくんですか?
世の中の方向性、ここで間違えた!
ぼーっと聞いてたら、「全ての子どもたちが適切なサポートを受けながら同じ学校に通えば、みんなが相手のことを小さいころから理解して、それってみんなが活きやすい社会、ソーシャル・インクルージョンの実現でしょ?」って言われたら、なんとなぁくそんな気がしてしまいますが、
それぞれの言葉が生まれた経緯とか、それぞれがもともと持ってた意味を考えると、「インクルーシブ教育はソーシャル・インクルージョンに繋がる」っていうこの話し、論理繋がらなくておかしいですからね。

 ところがこれが、おかしいって思われないまま国際機関が掲げる目標となっていきます!!1994年にユネスコを中心に発表した、サラマンカ宣言などですね。1990年代後半から現在にかけて、国際的な目標では「インクルーシブ」っていう言葉がやたら使われるようになります、その定義を問われないまま。
社会的弱者も暮らしやすいインクルーシブな街づくり、全ての子どもたちが教育の恩恵を受けられるインクルーシブ教育の導入、災害弱者にも配慮したインクルーシブ防災の考え…などなど。えっと?ところで、インクルーシブって何でしたっけ。この根本的な問い、誰も疑問に思わなかったらしいです。
これじゃインクルーシブの意味は「何でもアリ」じゃないですか(笑)。どんな状況においても全ての人にとって何かいいもの…みたいな、わけ分からない使われ方をした結果、この後面白い解釈へと進化します。

 たとえばイギリス。2000年代になって、いよいよインクルーシブな学校作りをするぞって政府が思ったんですね。それで、各学校に、こういう学校を目指してくださいっていう、開発目標を記した文書を配っているのですが、その指標がこちら:
「共同体を築く、誰もが居心地の良さを感じる、教職員も生徒もそれぞれ互いに尊敬しあえる、教職員・保護者・福祉関係者のパートナーシップが存在する、インクルーシブな価値を確立する、あらゆる差別を最小化する努力を行う。」
 これを最初に読んだ時、どっからその話し出てきたんだって吹き出しちゃったのは私だけですか?
そもそも、全ての子どもを同じ学校に投げ込むだけじゃなくて、各自に適切なサポートしなきゃっていうのがインクルーシブ教育だったんでしょ?先生と生徒が互いに尊敬しあえて…みたいな話し、どこから出てきたの?なんだこの適当な教育。
ほらぁ、インクルーシブっていう言葉が「何でもアリ」として使われた結果、インクルーシブ教育まで「何でもアリ」になったじゃないですか。

※ 次の記事に続きます。
posted by Yukari at 17:13| Comment(0) | 日記